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宇都宮修理太夫正綱という侍が、夜半に金剛寺より帰る途中、小坊主に会い、不信に思って取り押さえると、「我は海童なり。助けたまへ、左あらんおいては、ご子孫繁昌日常農民耕作のため飼いおかる牛に、高山牛と札を付けられ候へ。ながく守らん」と言い、正綱の優しさもあって約束して、命を助けたそうです。 正綱は槍と馬術に抜き出た戦国の武将でした。天正3(1575)年、土佐の長宗我部氏が岡本城(宇和島市三間町)を攻め、正綱は岡本城の救援のため出陣しましたが、戦死しました。この知らせが、高山に届き3日3晩、海童の泣き声が続きました。 正綱の首は大松の下に葬られ、その後、天保13(1842)年、ここに祠(若宮神社)が作られました。現在の社殿は明治12(1879)年の改築で、正綱の城跡が見える西向きにし、河童狛犬も作られました。 河童狛犬は岩手県遠野市の常堅寺にもあると言われます。ここ若宮神社のは鯛を抱いているのがユニークです。今も毎年8月、河童祭りが行われています。
ご先祖、仏様を大切にしておくと、助けてもらえるという話になっています。
"カッパ伝説"は、戦国期から江戸期にかけてのものが多く、南蛮人の渡来時期(1543年以降)とも重なります。バテレン(キリスト教の伝道師)の異国人は、鼻が大きく姿形も日本人と違っています。またバテレン独特の帽子を被ったり、布教のために簑笠を背負った姿が、河童の皿や甲羅とも表現したのではないでしょうか。
天正15(1587)年6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布しました。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定があります。また、当時ヨーロッパに派遣された、天正少年使節は東南アジアの各地で、日本人奴隷を多く見かけて驚いたと言う別の記録があります。
全国では「狐」についての話が一番多いと言われています。しかし四国には狐の話はありません(松山(愛媛)に四国の狐を集めて、広島につれていったので、四国に狐がいないという話があります)。続いて全国では「狸」「河童」についての話が多くあるそうです。 宇和島地域では、伊達氏の入国以前の歴史資料に乏しい状態ですので、当地の渡来人の状況についても残念ながらまだ発見されていません。河童は伝説上の妖怪とするのと、ちょっと視点の違う見方でした。 | |||||||||||||
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