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維新の道を行く (1)

国西南大規模林道が昨年できました。全線開通は全国で初めてだそうです。

秋の紅葉 この大規模林道は四国西南部の山あいを通る2ルートがあり、

  西ルート
鬼北町〜西予市城川町〜梼原町〜西予市野村町
  東ルート
梼原町〜津野町

両ルートは四国カルストの県道を介して接続していてます。完全2車線、アスファルト舗装で、一般車両も乗り入れができます。そのうち、「鬼北町〜西予市城川町〜梼原町〜西予市野村町」のルートは、幕末期に土佐藩から脱藩した志士たちが越えた峠など、歴史ゆかりの地とも多く交差しています。印象に残る所をご紹介しますね。

日向谷御番所跡

国道197号線の愛媛県鬼北町高研トンネル脇の林道入り口にあります。江戸時代初めから伊予、土佐両国の国境の番所でした。

旧道,高研トンネル

旧国道197号線の石造りの高研トンネルです。高研越えは、新道が開通する以前、宇和島から梼原に旅すると弁当が2ついると言われたほど、深い谷間の難所でした。静寂の中に往来を見守っているかの様です。現在の新道は鬼北町から梼原町まで車で15分、交流もますます深くなっています。

九十九曲峠 (くじゅうくまがりとうげ)

坂本龍馬小便の杉 梼原町と西予市城川町との間には、いくつかの峠があります。その南側にあるもので、梼原町宮野々から、葛折の山道を越え、西予市城川町高川に至るルートがありました。
ここは幕末期に、土佐藩士が脱藩した道とも知られています。林道脇に「坂本龍馬小便の杉」が残っています。最近は、ここより北方の韮ケ峠(にらがとうげ)を越えた説が有力ですが、証拠!?とも呼べるのではないでしょうかね。
杉の脇には、「人ならば昔のことも聞いてみし勤王の士を偲ぶ老杉」と言う碑が立っています。この九十九曲峠からは吉村虎太郎、千家菊次郎、松山深蔵、上岡胆治、田所荘輔、中平龍之助、尾崎幸之進、安藤真之助、千屋金策、澤村惣之丞、宮地宣蔵の、11人の志士の名前が伝えられています。

吉村虎太郎(1837-1863)

芳生野村庄屋吉村太平の長男として生まれる。間崎蒼浪の門に学び、肝胆相照らす間となる。安政6(1859)年梼原村番人大庄屋として赴任した。武市瑞山らと勤王党を結成、文久2年脱藩して京に登った。一度捕らえられたが、出所後再び京に上り、翌3(1860)年天誅組を組織し、大和に兵を挙げた。しかし、八・一八の政変で孤立無援となり、鷺家谷(奈良県)にて幕府軍に阻まれ、天誅組は壊滅、虎太郎も壮烈な戦死を遂げた。

中平龍之助(1843-1868)

梼原村地下浪人(じげ,ろうにん)中平佐平の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。文久3(1863)年脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い自決した。

澤村惣之丞(1843-1868)

高知潮江村地下浪人の家に生まれる。一度吉村虎太郎と九十九曲峠から脱藩し、状況報告に返り、文久2(1862)年春、坂本龍馬とともに韮ケ峠から脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に学び、亀山社中に加わって、坂本龍馬の片腕となって活躍した。慶応4(1868)年1月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退散した。その奉行所を占拠して市中の治安維持に当たっているとはに、薩摩藩士を誤殺、「この大事のときに薩摩と土佐の間に溝を生じさせてはならない」と、自決した。

前田繁馬(1835-1863)

松原村庄屋前田広作の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、吉村虎太郎、那須信吾らと交わって勤王の志を固めた。文久3(1862)年吉村虎太郎の挙兵を知り脱藩。天誅組に入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅、初瀬(奈良県)で戦死した。

掛橋和泉(1835-1862)

梼原村那須常吉の2男として生まれ、同村神職掛橋家に養子として入った。すぐ隣の吉村虎太郎と親交を重ね、勤王の志を固めた。文久2(1862)年春同志が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、家財を費やして彼らを援助した。これが養母の知るところとなり、この詰責を受け、同志に類の及ぶことを恐れ自決した。


大茅峠 (おおかやとう)

梼原町四万川(しまがわ)から、西予市城川町古市(ふるいち)に至るルートの峠です。現在は立体交差となっています。"四万川"と言う地名は城川町にもあります。古くからの交流をしめしているのではないでしょうか。

韮ケ峠 (にらがとう)

梼原町四万川(しまがわ)から、西予市野村町惣川(そうがわ)に至るルートの峠です。現在は大規模林道も交差していて、4差路となっています。ここは坂本龍馬が脱藩した地と言われています。木道やイラストマップの説明板があります。説明の一節です。

 覚

関雄之進 口供之事

三月二十六日 四満川ヨリ韮ケ峠ニ至ル
信吾コレヨリ引返ス 小屋村ヨリ榎ケ峠―
 横通リ―封事ケ峠―三杯谷―日除
―水ケ峠ヲ経テ 泉ケ峠に至ル
龍馬 俊平ト共ニ泊レリ
二十七 北表村ヨリ宿間村ニ至ル
俊平コレヨリ引返ス
宿間村ヨリ 金兵衛邸ニ至ルマデ
大洲城下ヲ経 渉スルコト 七里半
金兵衛邸ヨリ[招賢閣]三田尻
 明治六年十一月十五日 自宅ニテ誌ス

            高松小埜

後に"高松小埜 (坂本龍馬の姉:千鶴の夫) が残したと言う書き付けの写し"からです。文中の、
龍馬

坂本龍馬(1835-1867)

高知の郷士坂本八平の2男として生まれる。江戸の千葉定常の門に入り北辰一刀流を修めた。武市瑞山と交わり勤王党に血盟加入し、文久2(1862)年春同志澤村惣之丞と脱藩、勝海舟らに啓発される。薩長同盟の締結、大政奉還の推進など、維新の指導者として活躍したが、慶応3(1867)年11月15日、盟友中岡慎太郎とともに、京都近江屋で倒れた。

信吾

那須信吾(1829-1863)

佐川村(高知県佐川町)浜田宅左衛門の第3子として生まれる。梼原村郷士那須俊平の養子となり、その娘為代と結婚した。文久2(1862)年4月、土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、その足で脱藩し京都に潜伏した。翌3月、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵したが幕府軍に阻まれ壊滅。鷲家口(奈良県)で戦死した。

俊平

那須俊平(1807-1864)

梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、特に槍術に長じ「土佐一の槍の達人」と称された。文久2(1862)年4月、養子の信吾は藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬って脱藩した。俊平も元治元年脱藩。長州の忠勇隊に入った同年、58才の身で禁門の変に参加し、奮戦の末戦死した。梼原町用井から鬼北町節安に脱藩しています。

冒頭の関雄之進は澤村惣之丞の変名と言われています。この韮ケ峠から、坂本龍馬、澤村惣之丞 (九十九曲峠からと2度脱藩してます) が脱藩したと伝えられています。

ここは大規模林道「四国西南大規模林道西ルート」の終点でもあります。さて、四国カルスト、大野ヶ原も直ぐ近くですね。ここまで鬼北町の大規模林道入口から約30分です。

四国カルスト

国で一番標高の高いカルスト地形として知られています。雄大な景観、澄んだ空気、アウトドアの施設も各地で整備されています。

大野ヶ原 大野ヶ原  西予市野村町の大野ヶ原は、高原の草地を生かした牧畜が盛んです。また夏のだいこん、ポニー牧場、冬のスキーも有名。自家製アイスクリームも美味しいです。ここには平家の落人の伝説が伝わっています。

地吉峠  梼原町から久万高原町への国道440号線のピークです。毎年夏、7月第3日曜日に四国カルスト高原マラソン大会が開かれます。大きな景観の中のマラソンはすがすがしいですが、標高が高い分、疲れやすいです。体調を整えてから出場しましょう。

姫鶴平 姫鶴平  久万高原町になります。キャンプ場や宿泊施設も揃っています。

天狗高原 天狗高原  標高1485mを最高峰に四季それぞれの姿で楽しめます。コテッジやスキー場、宿泊施設も完備。カルストを学べるカルスト学習館もオープンしました。

設省の歴史街道事業は、太郎川公園から大越峠、宮野々、九十九曲峠を通るルートで行われています。また、東ルートの東津野村天狗高原から国道197号線に至るルートも風光明媚な道です。一度、いかがですか。


Bird

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