|
"宇和"の意味ですが、"宇"は"山・峰"で、"和"は"輪"で、周りを囲む、外囲い。また、板島は、"板"が"城"の意味、"島"は、当時、城山の北・西側のほとんどが海で、島に見えたからとか。 慶長19年(1614年)、宇和郡十万石を封じられた、伊達家が、人心一新の意図で、宇和郡の宇和と、板島の島をとって、宇和島としたという説が強いようです。そうであれば、380年余りという事になりますね。 尚、広島県三原市、山口県にも宇和島という地名があります。取材には、市役所、市立図書館、伊達博物館、伊吹八幡神社、宇和津彦神社、松本隣一氏の協力をえました。感謝しております。
日本書紀に御馬(みま)山とあって、和銅6(713)年の和名抄には美万(みま)とあります。
歴史上に記載された、広見町内の地名で最初に出てくるのは、広見町柏田の"笛吹大池"で、730年の築造と言われています。"近永"は、鎌倉期の近永市之允(ちかながいちのすけ,平家落人と言われている)氏から伝わっていると言われています。
岩松の地名は南北朝時代、新田義貞の一族、岩松義康が興国2(1341)年、懐良親王に従って伊予に来られ、この地にとどまったと伝えられているところからと言われます。
なお、続日本紀にある、文武天皇2(698)年に朱砂(水銀)を献上したという記録が、日吉村富母里(とんもり)にあった水銀鉱山の始めといわれています。
事業者は宇和水電(株)で、明治43年6月資本金40万円で創立、当時の本社事務所は宇和島市本町にありました。当所、電源は、明治45年4月、同会社が東宇和郡野村町の宇和川に建設した、野村発電所(出力510KW)でした。水力発電だったわけですね。 電気の供給開始日には、盛大な祝賀会を開かれました。同日、料亭"丸水楼"に当時の北宇和郡長、宇和島町長他多数の官民有志が集まり、宴半ばになって電灯がつくと、一同歓喜の拍手で祝ったそうです。嬉しさが判りますね。当地域の産業・文化発展の大きな燭光であったわけです。 開始当時、電灯のみの使用者のみで、電動機の使用はなく、電灯取付け数は八幡浜市、宇和町を合わせて6186灯でした。点灯時間は、日没より日の出までだったそうです。また、料金は月額で、5燭光50銭、10燭光70銭、16燭光90銭、25燭光1円45銭でした。1燭光は、白熱電球で1W位で、当時、米1升が約12銭だったそうですから、値打ちが判ります。 その後、宇和水電(株)は、大正3年5月に宇和島市住吉町に出力 400KWの火力発電所を完成させ、供給区域を次第に拡大していきました。 大正14年、伊予鉄道電気(株)(本社松山市)と合併。昭和17年四国配電(株)(本社新居浜市)に合併(四国各県の各電気会社への統一)同26年四国電力(株)(本社高松市)として発足、現在にいたっています。 尚、四国に電灯が点ったのは明治28年1月徳島市で、愛媛では、明治36年1月松山市が最初でした。取材には 四国電力(株) 宇和島支店の協力をえました。
広見町の地域は大正11(1922)年です。通信網の架設は、電信が明治44(1911)年、電話が同大正11(1922)年なのです。
早速、大正11年上水道調査事務所を開設、ドイツ人ザイラー技師を招いて、実地調査を行ない、水源を須賀川上流の"正し川"とし、実施案の作成に着手しました。そして、大正15年9月(1926)給水人口45000人、1日最大給水量5626m3の規模で、市民待望の創設水道が完成しました。県内初!でもあります。今から70年余り前ですね。 その後、水需要の増加と、受入ダムが小さい事とかで、生活用水の枯渇と農作物の干害が起っていました。こう言う窮状を打破する為、須賀川ダムの建設(1976)と南予用水事業がなされ、現在、第6次拡張事業で、給水人口63650人、1日最大給水量36320m3とし、未給水・高台給水不良地域の解消、老朽管取替え等の工事が進んでいます。
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
written by -konomi-