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宇和島アラカルト

Exhort 穂積橋の碑

穂積橋
宇和島市錦町・新町

穂積橋(ほづみばし)は、辰野川(たつのがわ)の下流、錦町・新町間に掛かる橋で、昭和5(1930)年に現在の鉄筋コンクリート橋に改築されました。この時、宇和島が誇りとする法学者であり、33才で我が国初の法学博士となられた、穂積陳重(むねしげ)博士の名前をとり名付けられました。

穂積陳重先生  穂積陳重先生は、安政2(1855)年に上士の家に生ました。穂積家は代々学問を大切にする家柄で、祖父は宇和島藩に国学を最初に取り入れた人、父も国学者でした。母は「教育は幼いころが一番大切」という教育主義者で、早くから陳重に国学、剣術、柔道、馬術、水泳、手習いなどを熱心に修得させました。7歳で藩校明倫館に入学、成績はもちろん品行も方正で神童と評判でした。

 陳重は8年間明倫館で学び、16才の時に貢進生に選ばれて上京、大学南校(東京大学の前身)・開成学校に進み法律を専攻しました。在学中の成績も優秀で卒業と同時に国費留学生としてイギリスに渡り、3年間諸法制を研究しました。続いてドイツ、ベルリン大学で2年間学びましたが、ここでも陳重の真剣な態度はみんなから敬服されました。

 明治14年に帰国、26才の若さで母校東京大学法学部の講師になり、民法を担当しました。翌15年には教授兼法学部長に任じられ、33才でわが国初の法学博士になりました。それまで先生の講義も学生の答案も英語で行われていたのを日本語に改め、わかりやすい講義をしました。専攻は、法理学、とくに彼のとなえた法律進化論は、日本の法典編纂の指導原理となりました。「だれにでもわかる民法」「生活に結びついた法律」をテーマに多くの後輩を育てました。しかも、理論も透徹していたので学生からも尊敬され人気も抜群でした。教壇に立つかたわら、明治26年設置の法典調査会で、民法起草委員長を勤めました。

 憲法実施直後の明治24年、来日中のロシア皇太子が一巡査に傷つけられるという大津事件が勃発した時、宇和島の先輩で大審院長の児島惟謙先生に意見を求められたのに対し、「外国でも敗戦国でない限り、自国の法律を曲げた例はない」「政府と対決して自分の主張が勝つ」と言って激励、惟謙からとの謝電が送られたという話は有名です。

また、人の面倒みがよく、郷里のためいろいろ奔走し、後輩の指導にあたりました。そして、当時宇和島町と八幡村の合併や、市制施行に尽力されたり、青年の勉学を奨励して多くの人材を育てました。弟の穂積八束先生は、憲法学者として名高い。

穂積橋の碑 この橋の経緯には、穂積先生の功績を記念して銅像を建てようと言う話があり、穂積家に尋ねたところ「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」と言う生前の意志から固辞され、改築中の橋の名前に刻むことを受諾され穂積橋の誕生となりました。またこの事は、博士の人柄もあらわしています。この碑は平成4年7月に建てられました。

 筑波大学に、穂積陳重先生とその長男で東京帝国大学教授であった穂積重遠先生の旧蔵書4,023点から成る「穂積文庫」があります。

Bird

written by -konomi-