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宇和島アラカルト

はじめはじめ物語

地域の名前

宇和島地域 Exhort 宇和島

和島の名前の謂れは、余り知られてないようです。藤堂高虎の入城以前は、現在の宇和町卯之町が、この地域の中心で、宇和島は、板島と呼ばれていました。その後、宇和島という名前に、改名されたわけです。この改名の時期については、諸説があるようです。

  1. 最初に城下を作った、藤堂高虎が改名した
  2. 宇和島藩、初代藩主、伊達秀宗が改名した
  3. 藤堂高虎が改名した後、板島の名前に戻し、その後、伊達秀宗が再度改名した。
そこで、文献にはっきり残る"宇和島"の名前を探しました。最初に見られるのは、"宇和旧記"と言う史誌に、愛宕大権現神社(現存しない。現在の愛宕公園辺り)に、当時の侍大将"桜田玄藩"が奉納した、鰐口(神社仏閣前に吊す中空の円形の金鼓)の銘に"予州宇和島住桜田玄藩助藤原元親"と言う記載があり、元和七年(1622年)という年号が書かれています。
"宇和"の意味ですが、"宇"は"山・峰"で、"和"は"輪"で、周りを囲む、外囲い。また、板島は、"板"が"城"の意味、"島"は、当時、城山の北・西側のほとんどが海で、島に見えたからとか。
慶長19年(1614年)、宇和郡十万石を封じられた、伊達家が、人心一新の意図で、宇和郡の宇和と、板島の島をとって、宇和島としたという説が強いようです。そうであれば、380年余りという事になりますね。
尚、広島県三原市、山口県にも宇和島という地名があります。取材には、市役所、市立図書館、伊達博物館、伊吹八幡神社、宇和津彦神社、松本隣一氏の協力をえました。感謝しております。

Exhort 三間

宝律令(701年)に"三間"の記載があり、これ以前に周知されていた様です。日本書紀に持統天皇五年(691)七月、伊豫国司、田中法麿(のりまろ)が"宇和郡御馬山(現在の三間の山)で、取れた白銀三斤八両と銚(あかがね->銅)一籠を献上した"と言う記載があります。冶金術も伝わっていたのですね。
日本書紀に御馬(みま)山とあって、和銅6(713)年の和名抄には美万(みま)とあります。

Exhort 広見

見の名前が出てくるのは、ずっと後になります。広見町のできた、昭和30(1955)年、"鬼ケ城山"よりの"鬼城町(きじょうちょう)"と、"広見川"よりの"広見町(ひろみちょう)"との住民投票で、わずか1票差で"広見町"となったそうです。
歴史上に記載された、広見町内の地名で最初に出てくるのは、広見町柏田の"笛吹大池"で、730年の築造と言われています。"近永"は、鎌倉期の近永市之允(ちかながいちのすけ,平家落人と言われている)氏から伝わっていると言われています。

Exhort 津島

島の名前は宇和島市津島町高田にある、高田八幡神社に伝わる"高田八幡文書"で、徳治2(1307)年が初めて見られると言われています。この古文書は県の有形文化財に指定されています。
岩松の地名は南北朝時代、新田義貞の一族、岩松義康が興国2(1341)年、懐良親王に従って伊予に来られ、この地にとどまったと伝えられているところからと言われます。

Exhort 日吉

吉村の名前は、村内の"日吉権現神社"からと言われています。縁起では、永正3(1506)年、渡辺教忠が領地の河原淵の北端に神社を建て、域内の武士や住民の団結を図ったそうです。地名では、「日向谷」が建仁元(1201)年に見えます。
なお、続日本紀にある、文武天皇2(698)年に朱砂(水銀)を献上したという記録が、鬼北町富母里(とんもり)にあった水銀鉱山の始めといわれています。

宇和島港

初は不明ですが、慶長6(1601)年藤堂高虎が城塞の一部を船着場として整備したのが始めと言われています。海路に依存する地形の為、伊達家の入城以来、重要な役割を担ってきました。その後、浚渫・埋立て等整備が進み、昭和35年重要港湾、同46年関税法開港、同年植物輸入指定港を受け、現在、入港船舶 2.2万隻、海上出入貨物 135万トン、乗降人員24.5万人となっています。

電 気

和島に初めて電気がついたのは、明治45年(1912年)5月1日でした。今から85年余り前になりますね。供給地域は最初、市内中心部(当時の宇和島町)にとどまり、来村地域は大正2年9月、高光地域は同4年6月に電気の供給が始まりました。
事業者は宇和水電(株)で、明治43年6月資本金40万円で創立、当時の本社事務所は宇和島市本町にありました。当所、電源は、明治45年4月、同会社が東宇和郡野村町の宇和川に建設した、野村発電所(出力510KW)でした。水力発電だったわけですね。
電気の供給開始日には、盛大な祝賀会を開かれました。同日、料亭"丸水楼"に当時の北宇和郡長、宇和島町長他多数の官民有志が集まり、宴半ばになって電灯がつくと、一同歓喜の拍手で祝ったそうです。嬉しさが判りますね。当地域の産業・文化発展の大きな燭光であったわけです。
開始当時、電灯のみの使用者のみで、電動機の使用はなく、電灯取付け数は八幡浜市、宇和町を合わせて6186灯でした。点灯時間は、日没より日の出までだったそうです。また、料金は月額で、5燭光50銭、10燭光70銭、16燭光90銭、25燭光1円45銭でした。1燭光は、白熱電球で1W位で、当時、米1升が約12銭だったそうですから、値打ちが判ります。
その後、宇和水電(株)は、大正3年5月に宇和島市住吉町に出力 400KWの火力発電所を完成させ、供給区域を次第に拡大していきました。
大正14年、伊予鉄道電気(株)(本社松山市)と合併。昭和17年四国配電(株)(本社新居浜市)に合併(四国各県の各電気会社への統一)同26年四国電力(株)(本社高松市)として発足、現在にいたっています。
尚、四国に電灯が点ったのは明治28年1月徳島市で、愛媛では、明治36年1月松山市が最初でした。取材には 四国電力(株) 宇和島支店の協力をえました。

Exhort 広見

鬼北町(旧広見町)の地域は大正11(1922)年です。通信網の架設は、電信が明治44(1911)年、電話が同大正11(1922)年なのです。

上水道

須賀川ダム
和島市は年平均降水量が1600〜1700mmですが不安定な気象状況下にあり、水不足を繰返してきました。最初に上水道が立案されたのは大正4年(1915)です。ところが、当時上水道に国庫補助がなかった事もあり、計画が流れましたが、大正9年夏のコレラ流行を来に、上水道施設を要望する声が再び強くなり、翌年の市政発足の基本事業となりました。
早速、大正11年上水道調査事務所を開設、ドイツ人ザイラー技師を招いて、実地調査を行ない、水源を須賀川上流の"正し川"とし、実施案の作成に着手しました。そして、大正15年9月(1926)給水人口45000人、1日最大給水量5626m3の規模で、市民待望の創設水道が完成しました。県内初!でもあります。今から70年余り前ですね。
その後、水需要の増加と、受入ダムが小さい事とかで、生活用水の枯渇と農作物の干害が起っていました。こう言う窮状を打破する為、須賀川ダムの建設(1976)と南予用水事業がなされ、現在、第6次拡張事業で、給水人口63650人、1日最大給水量36320m3とし、未給水・高台給水不良地域の解消、老朽管取替え等の工事が進んでいます。

ふるさとの味

丸ずし

戸時代、明和年間(225年程前)に山崎徳右衛門という人が、遍路に教えられて作ったのが初めと言われています。全国でも珍しい郷土料理です。鯵の他、鯖、さより、ぎびなごも使われています。(時期:年中)

材  料 鯵(ゼンゴ) 10尾
うの花(オカラ) 150g
砂糖 100g
うす口醤油 大さじ2
大さじ3
生姜みじん切 大さじ3
葱,黒ゴマ,紅生姜,おの実
調理方法 (1).鯵は頭を取り、3枚におろす。うす塩をし、
5〜6時間おき、酢洗いし、うちあげる。
(2).うの花は良く煎り、砂糖、醤油、酢で味付け
し、生姜、おの実をいれて煎りあげる。
(3).(2)に葱・黒ゴマを入れ、俵型にまとめ、
(1)の魚でくるりと巻く。


Bird

written by -konomi-