Home
宇和島アラカルト

Exhort 松野町ふるさと館

松野町ふるさと館
松野町目黒684-2

Tel.0895-43-0148

休館日:月曜日

●予約受付 0895-43-0148

ちょっとご案内

主屋
黒ふるさと館は、庄屋屋敷をイメージして建てられたものです。館内には民具なども展示されています。なお、蔵の展示室のみ有料となっています。

蔵内部
には、目黒村絵図・山形模型・関係文書が展示されています。これらの史料は、目黒村山境争いに際しての幕府の裁定に関するものや、その顛末を記したもの等です。

 目黒村絵図は、東西312cm、南北260cmあり、黒・赤・茶・青の4色で描れていますが、痛みが激しいため、複製したものを展示しています。なお原図は、寛文4(1664)年に作成されたものとみられます。

 山形模型は材料に銀杏樹を用い、指物大工が彫り刻んで着色して地名を貼紙で書き、6個の組立式に作られています。大きさは、東西254cm、南北156cmで、寛文5(1665)年に完成したとみられています。平坦部を記す下絵図は、東西315cm、南北242cmあります。


目黒村山境争いの顛末

主屋囲炉裏
暦3(1657)年の夏、宇和島藩初代藩主伊達秀宗(だてひでむね)の子宗純(むねずみ)が、宇和島藩領の内81ケ村浦を分封され、吉田藩3万石が創設されました。このことは、宇和島藩にとって減封であり、藩主宗利(むねとし)や藩主の不満が山境公事の遠因ともなったと考えられます。またこの分封のために、目黒村は吉田藩領として宇和島藩領の村に囲まれた飛地となり、兄弟である目黒村と次郎丸村の庄屋が境界を争い、これによって両藩の境界をめぐる深刻な事件に発展したのです。

 事件は明暦4(1658)年の春、目黒村の庄屋長左衛門が宇和島藩の仙人(そまびと)を取り押さえたことに始まりました。長左衛門は組頭を使者として、兄である次郎丸村の庄屋兵左衛門に報告し、その夜目黒村の親元でこの事件を論議しましたが、立場の違いや利害の関係から意見が対立し、宇和島・吉田両藩の公事となったのです。両藩では庄屋の口上書や調査をもとに何回も交渉をしましたが、決定せず、山境の未決定地域の山は両藩の入相地として、当分の間御用木の伐採を中止することを申し合わせました。

 萬治4(1661)年、宇和島藩の山奉行が目黒村奥の藤ケ追谷で木材を伐採したことで再び山境争いが起こりましたが、両藩の交渉は最初から紛糾して、相互の対立は激化するばかりでした。さらに寛文2・3(1662・1663)年と争いが続きましたが、ついには吉田藩は江戸屋敷に連絡を取って、目黒村庄屋長左衛門らに幕府へ直訴させることにしました。

 寛文4(1664)年の春、長左衛門とその親方元・農民代表は300里の道中を乞食の姿で江戸へ行き、幕府の寺社奉行加賀爪甲斐守と井上河内守へ訴え出ました。その訴状には、宇和島藩次郎丸村庄屋兵左衛門が目黒村の山境を狂惑させていること・両藩主が兄弟であるために家老や奉行が遠慮してらちがあかないことを記し、「・・百姓もの末代に御座候、御地頭者当座御事候間・・」と、農民の土地に対する執念を述べています。

府の評定方は訴状を取り上げ、宇和島・吉田両藩の立ち会いで裁断することにして、絵図の作成と提出を命じました。5月、長左衛門が江戸から帰り、寺社奉行の命令書を次郎丸村庄屋兵左衛門に渡して、両藩協議の上目黒村絵図と山形模型の作成に取りかかりました。その作業にあたって、両藩の関係者は起請文を記し、天地神明に公平に作業することを誓ったのです。

 現存する起請文は、一通が郡奉行や山奉行の連名・一通は町見の測量師や作図の絵師、彫刻の大工らのもの・さらに一通は目黒村役人のものであり、模型の作者がうかがわれる貴重な史料です。

山形模型
文5(1665)年10月12日、江戸城内の評定所で老中稲葉美濃守・同久世大和守・寺社奉行井上河内守・同加賀爪甲斐守・町奉行渡辺大隅守・勘定奉行岡田豊前守・同妻木彦左衛門が立ち会いの上、両藩士と両庄屋が出席して裁判が下されました。

 その結果は、山境について双方の申し分が不明であるため新境を定めることとし、東西南北の境を定めて絵図に線を引き、裏に判決文を記して採決としたのです。


Bird

written by -konomi-